日記
小桜インコのこと
小桜インコを飼いだして、3年です。
小桜インコはとても色が綺麗で、目がくりっとして
鑑賞用もしくは少しだけでも場が和んだらと安易な気持ちでした。
ところが、もう立派な家族です。
懐き度合いは犬並み(猫はつんでれですが・・・)
私が帰宅すると だせだでアピール。
ずーと肩に載っています。(うんちがたまに傷)
自宅の間取りも覚えて、私が二階から呼べば 階段を飛びわたしの部屋までやってきます。
子どもと同じで眠くなると ぐずり鳴き。。。
寝るよって呼ぶと
{きゅーー}
それはいつものこと。。。
知能は半端ない。
私の記憶より最近はいいかもです。
声が大きのがたまに傷。
今は 私の相棒です。
相棒 テレビでもうすぐ始まりますね。
銃なき社会の日本で
叔母との思い出(上士幌町)
私は、小学校2年まで、北海道の上士幌町で育ちました。
町から離れた広大な畑の真ん中にポプラが1本そびえているのが見印でした。
北海道での生活は、今の私の人格形成にかなりの影響があった生活でした。
もの心ついたとき、祖父母・両親・私 そして 父の兄弟 三人との大家族でした。
父の末の妹 私にとっては叔母ですが、父と年が離れていたせいか、
私にとっては姉のようでした。
いつだったでしょうか。
家には、馬・鶏・ヤギ・犬・猫と家畜やらぺっとやらがいたのですが、
その叔母が(小学生高学年のころ)友達から羊をもらっていました。
しかし、家族の反対にあって、泣きながらその羊を返しにいった後ろ姿が今も鮮明に脳裏に焼き付いています。
その後、叔母は牛飼いの家に嫁ぎ、乳牛を営みながら、小説や童話などを執筆しておりました。
その叔母が8年前 60歳だったでしょうか。突然手紙で、葬式で会う前に、生きているうちに会うことができたらと・・・
そのときは、もうすでに永くないと悟っていたのでしょう。
今、私は、義母が亡くなった57歳を超え、叔母が亡くなった60歳を超えました。
生かされていることに感謝しつつ、今できることを粛々とやって生きたいと感じています。
近いうちにまた、あの土地にまた立ってみたいと思います。
今はもう生家もポプラもありませんが、、、
流れる雲や風は変わっていないはずです。